「なぜ支援するのか」:公共政策が人を支援するとき

担当:安藤(公共政策学)

概要

 

公共政策が働きかける対象は、さまざまです。 

市場や社会といった「具体的な姿のつかみづらいもの」から、国家や地方政府、企業といった「具体的な姿が見えなくても、法律などの制度によってはっきりと存在が確認できるもの」、そして道路や水道といったインフラや、自然や個人などの「具体的な姿がはっきりしているもの」まであります。

 

これらの中でとりわけ私たちが身近に感じるのは、個々人に対する公共政策ではないでしょうか。

個人は皆自由であるとしても、家族政策などの「公共」政策の対象になりえます。実際、私たちが公共政策なしで完全に個々人の力だけで社会で生きることは、難しいでしょう。

 

では、個人が公共政策の対象となるのに、どんなきっかけや理由があるのでしょうか。

この講義では、公共政策のなかでも社会政策と呼ばれるものに注目し、政策と人との関係について考えていきたいと思います。

 

講義を終えて

 「そういえば私自身、大学に入るまでの学びのなかで「公共政策」を研究の対象として意識する経験ってなかったかも」前回の講義でそんな気付きを得たこともあり、今回は公共政策とは、公共政策を学ぶとはどういうことか、ということからお話を始めました。

 

 そこから、私たち一人ひとりと「公共政策」がどう関わっているのか、ということについて話をつなげました。政策と個人との関りについて、主に「社会政策」に属する政策に注目しお話しました。保護としての観点、エンパワメントを重視した社会投資の観点、それぞれの観点からいくつかの具体的政策事例をお示ししました。

 

 今回は、政策が人々にアプローチするあり方の多様性について考えてみたい、という思いから、講義を企画しました。大きなテーマを掲げていたため、講義が上手くいくか緊張しましたが、質疑応答で学部生の方から鋭い質問をいただけたこともあり、内容をより深めることができました。おおむね興味を持って聞いていただけたようで、とてもありがたかったです。

 

 伝えたい内容に適した事例を選べていたかどうか、双方向性のある展開をもっと工夫できなかったか、など、新たな課題も把握することができました。今後に活かしていきたいです。

安藤(公共政策学)

アシスタントコメント

 個人的な話となって恐縮であるが、私(このコメントの筆者)はかつて文部科学省のインターンシップに参加し、2週間ほど霞が関の本庁舎に出入りしたことがある。ここでその詳細を書くことは控えるが、安藤さんが経験されたという「現場」はきっとあの霞が関の風景の中にあったに違いない、そんなことを思いながら講義を拝聴した。

 

 講義後の質問では、公共政策学と政治との関わりを問うたが、ここでは私の研究関心から、安藤さんへのもう一つの問いを記しておきたい。

 私は日本中世史(民衆生活史)の研究者として、平素は過疎化が進む地域や限界集落一歩手前の地域に出入りしている。私とて普段はそうした地域で働いているわけではないが、そこには〈霞が関的〉な世界とも、あるいは〈丸の内的〉な世界とも違う、およそそれらとは対極に位置する別の世界の「現場」が存在しているように思う。(ちなみに私個人は後者の世界の価値を主張しようとしている)

 

 安藤さんが「私は『現場』を知っている」と言われることは結構なのだけれども、その「現場」を日本の社会構造全体の中に位置づけた時、どのような見方が出来るだろうか。少し乱暴な言い方ではあるが、都会の4年制大学卒業→官庁で就職というコースは、社会的(学歴的・階層的)・地域的な尺度で見た時、ほとんど同じ世界を横に移動しているに過ぎないのではないか、という見方もあながち不可能ではないと思う。私が危惧するのは、安藤さんが「私は『現場』を知っている」と述べられる時、それは学問の世界に対する「現場」を主張することにおいては有効でありながら、その「現場」も所詮は〈霞が関的〉〈丸の内的〉な世界を構成する一部のエリート集団の枠内の事実であって、別の世界の「現場」がある、という反省が欠落してしまうのではないか、ということである。少なくともこの場で発言するためには、そのような反省を明示する必要があったのではないか。

 

 以上の事は広く政治にたずさわる人々にはぜひとも問いたい問題であるし、私自身よく自戒しなければならない何かを含んでいることと思う。安藤さんをはじめミカタのメンバーとも、いつかはこうした問題について話し合いたいと私はたくらんでいる。

 

村上(歴史学・日本中世史)